第2章  失われた記憶

 ハナコは気がついたらここにいた。少なくても2年前からここにいたようである。それ以前の記憶を遡ろうとしても、頭が痛くなるばかりでちっとも思い出せない。ハナコは記憶喪失にかかっていることを自覚していた。

 確かに人間であることは自覚していた。おそらく、ここに来るまでは人間として生活していただろうということも想像がついた。なぜならば、人間でしか知りようがない知識を持っていたからである。人間としてある程度の年齢まで過ごさなければ、こんな知識は知りようがない。例えば、自分が記憶喪失だろうということを自覚していることだ。しかし、自分は何者なのか、なぜ牧場にいるのかを知るすべは無かった。

 ハナコが初めて自分の身の上に気がついた時は大変だった。なにしろその馬小屋の劣悪な環境。そのニオイは強烈で、常に頭が痛かった。そして寒さ。なにせ裸で外にいるのである。冬は、糞尿にまみれたワラであろうとそれに身をうずめなければ、とても耐えられなかった。食事にしても腐ったようなニオイのする飼料がほとんどで、生の人参でさえ大変な御馳走に思えた。人間の身体はこれらをあまり食べられるようにできていない。ハナコはしょっちゅう下痢をしていた。

 当初、ハナコはここから逃げ出そうと思っていた。実際に逃亡を企てたことが何度かある。人間であるからには、柵をよじのぼったりすることはたやすいことだ。しかし、柵には熊よけの為の高圧電流が流れていた。また、運良く高圧電流を逃れたとしても、夜の闇の中、この森を抜けることはかなわないことだと思われた。熊をはじめ多くの猛獣がいるし、猟師の罠や底無し沼など危険があまりにも多い。無事で抜けられる保証などどこにもないのである。馬小屋にいればとりあえずは生きていけるのである。それに、このまま人間社会に復帰できるのか? 以前の自分がを全くわからないのに、誰を頼ればいいのだろう。そう考えるうちに、自分が人間であることさえ疑いはじめ、ほんの少し出たところで思いなおし、自ら馬小屋に戻るのだった。

 もちろん、自分ならこの森の中で生きていくことが可能である気がするし、運悪く死んだところで、少なくとも現状よりましである気もした。しかし、いまひとつのところで、逃げ出す気がしなかったのは、少年の存在があったからだ。



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