第1章  馬という人間

 彼女は、馬ではない。紛れもない人間である。二本足で立つこともできたし、話そうと思えば話すこともできた。だいたい尻尾も蹄も無い。これっぽっちも馬の特徴などありもしない、まったくの人間だった。しかし彼女は馬であった。他の人間達にとって、彼女は馬でしかなかったのである。

 彼女は、SF小説によくある人間の脳を移植された馬とか自分を人間だと思い込んでいる馬などでは決してない。本当に、本当に人間なのである。彼女を見る人間達によって、人間でありながら馬にされているだけなのである。周りの人間達は、決して彼女を虐待のために馬としたわけではない。ただ、人間であることに気づいていなかっただけなのである。

 人間の眼は、果して本当に真実を映し出しているいるのか? あるいは、真実を映し出していても、果してそれを正しく認識しているのか? 確かに疑いだしたらキリがない。しかし、だからといってそれが真実であるという保証はどこにも無い。ともかく、彼女を見ている人間達が、彼女のことを馬だと思っている限り、彼女は馬でしかないのである。

 彼女は、その飼い主に『ハナコ』と命名されていた。その正確な年齢はわからないが、20歳前後で、汚れてさえいなければ色白で気品のある顔だちをしていた。その二重で大きめの眼は、いつも潤んでいた。栗色の髪は、光に透かすと金色に輝いていた。人間としてみると大変な美人であった。しかし、馬としてみると、単なる奇形でしかなかった。

 ハナコの牧場は、街から数十キロも離れた郊外にあった。国道から更に農道を数キロ行ったたところにあり、あまり人間の眼に触れられることがなかった。このことがハナコの不幸だったかもしれない。実際、彼女を見たことがある人は、ハナコの牧場の家族とその隣近所の人達の10人足らずだったのである。10人足らずとはいえ、たったの一人もハナコを人間であると気がつかなかったのは異常なことである。恐らく、彼らは集団催眠のような暗示にかかっていたのだろう。


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