第90回 98.08.03くらい 『ある朝突然に』(第1回雑文祭参加作品)

 そういう場面に出くわすとは、考えたことさえ無かった。

 それは、まさに晴天のヘキレキだった。今朝、聞きおぼえの無い野太い声で目がさめたのだ。あなた起きてえ。わたしを呼ぶ声は、いったい誰なのだろうか。そう思って振り返ると、そこには妻が立っていた。ああ、びっくりした。一瞬霊の類かと思ったではないか。ホッ。
 それにしても、その声はどうしたんだ。いつもの妻の声は、まるでウグイスのようだというのに。ホーホケキョ。それでは、まるで西川のりおみたいな声ではないか。ホーホゲギョ。もしかすると、カラオケのやり過ぎで声が嗄れてしまったのだろうか。まったくもう。遊び過ぎなんだから。
 しかし、声だけではない。妻の様子がどこかおかしいのだ。そう思って、よくよく顔を覗き込んでみた。なんと、ヒゲが生えているではないか。決して産毛ではない。青々とした濃いヒゲだ。うちの女房にゃヒゲがある。いったいどうしたというのだ。さらに良く見ると、喉ボトケもある。体つきも筋肉質になっている。

「わたし、なんだか変なの……」

 なんだかオカマが喋っているようだ。それでも取りあえず、毎朝恒例のえち(ああ、わたしのところは朝っぱらからなんだ)をしようと妻の股間に手をやった。ん? なんだ? 無いはずのモノがある。つまり、ちん……があるのだ。おまえ。いつの間に性転換をしたんだ?

「ううん。性転換なんかしていないの。朝起きたら、突然ちん……が生えていたの。ああ、男になってしまったら、もうお嫁に行けないっ!! いやんいやんっ!!」

 それは、まさに性転のヘキレキだった。たしかに男になってしまったら、お嫁に行けないだろう。……って、待てよ。君はわたしの妻だ。今更お嫁に行く必要が無いではないか。さては、これからわたしと別れて、誰か他の良い人のところにお嫁に行こうと思っているのではなかろうな。もっとも、そんな姿では他の男に寝取られる心配はないだろうけど。まあ、そんな心配をしてもしょうがない。まずは病院に行こうではないか。

 そんなわけで病院に行った。病院では、まず最初に血液検査を行った。医者というのは、病気の原因がわからない時、とりあえず血液検査をするようだ。おそらく、われわれが居酒屋に行くと、最初の一杯をとりあえずビールにするようなものだろう。それで検査の結果は?

「ビールっす」

 何気に医者はこう言った。そうか。やっぱり、とりあえずビールか。って、何を考えているのだ。仕事中にビールのことを考えるなんて。いや、考えるだけならまだしも、声に出してしまうなんて。この医者にとっては、わたしの妻よりビールの方が大事だというのだろうか。わたしは憤慨した。

「ああ、君は耳が悪いようだな。ビールっすじゃないウィルスだ。君の奥さんが男になってしまったのは、このウィルスが原因だということだ。まったく耳鼻科に紹介状を書いてやろうか?」

 なんだか失礼な医者だなあ。こっちは真剣だというのに。

「さらに言うと、君は先天的に早とちりするタイプだな。後でカルシウム剤を処方してあげよう」

 それは、まさに先天のアツレキだった。次からはこんな病院に来るもんかと思った。しかし、気を取り直して医者の説明を聞いた。妻の一大事である。感情的になってはいけない。医者の説明では、変異性であるウィルスが妻のDNA情報を組み替えてしまったということだ。なるほど科学的である。しかし、一体どこからこんなウィルスが妻の身体に入り込んだというのだ。

 医者が妻に尋ねた。
「ところで最近輸血をされましたかな?」

 妻が答えた。
「そう言えば、貧血気味だったので、この前病院に行って診てもらったのですが、その時、確か輸血をしたような……」

 えっ、なんだって? 妻がこの前行った病院って、ここではないか。ああ、やっぱりこの病院は、しょうもない病院だったのだ。わたしの印象は間違いなかったのだ。もう二度と来ないぞ。
 だいたい、たかが軽い貧血だというのに、輸血だなんて大袈裟な処置をするなんて聞いたことが無い。そんなことをするから大変なことになってしまうのだ。昔から言うではないか。「小さな貧血、大きなお世話」って。

 妻は天を仰いで嘆き始めた。
「ああ、この世には神様いないというの。いつもポケットに聖書を入れて神様にお祈りをしていたというのに。もう聖書なんて要らない。もう聖書なんて一生見ないっ!!」

 それは、まさに聖典のヘキエキだった。妻は、懐の中から本を取り出し放り投げた。いつもポケットに入れているという聖書だろう。しかし、よく見ると表紙には『般若心経』と書いてある。おいおい、それは聖書では無いぞ。妻は今までお経のことを聖書だと思い込んでいたのか。そいつはビックリ経典である。
 妻は気持ちの切り替えが早い。まあ、その後すぐに命には別状無いと聞かされたからだろうか、ひとしきり叫んだところで落ち着いた。そして病院を後にした。

 さて、これからどうしようか。やはり、このオカマとなった妻と夫婦生活をしなくてはならないのだろうか。できないだろうなあ。やっぱり別れようか。でもこの場合、わたしから言い出すのだから、わたしの方から手切れ金を用意しなくてはならないんだろうなあ。そもそも、手切れ金はいくらくらい必要なんだろう。

「あら、あなたとわたしの間じゃない。手切れ金だなんて1000円もあればいいわ」

 それは、まさに1000円の手切れ金であった。

「でも、やっぱり別れないわ。たしかに男同士では夫婦と言えないわ。でも、恋人同士ならいいでしょ。実は一回男になってあなたにしてみたいことがあったの……」

 妻の眼がキラリと光った。なんだなんだ。一体何をするというのだろう。あんなことやこんなことをするっていうのだろうか。これから毎晩……

 あまり考えたくはない話である。

 というわけで、今日の分はおしまいだ。では、また会う日まで。


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