第58回 97.05.01くらい 『ショパン・ショパン』

 今日は、町田市民文化センターでピアノリサイタルを行なった。「ショパンの夕べ」である。

 実はこう見えてもわたし、ピアニストなのである。みんなは知らなかっただろうが、そうなのである。グレードだって6級を持っている。ちなみに柔道は2段だ。これらを併せると2段6級だ。って、足せないではないか。いやはや、柔道は関係無かった。問題はピアノの腕前であった。

 実は、わたしの家はピアノ一家で、幼い頃からピアノの英才教育を受けてきたのである。三度の飯より3度の和音といった具合に、泣こうが喚こうがお構いなくピアノを弾かされ続けてきたのである。
「そんなことでどうする。お前のおじいちゃんが泣いているぞっ!!」
ってね。
 子供の頃は、あの偉大なおじいちゃんと比較されても困ると随分親を恨んだりもしたものだ。なぜならば、わたしのおじいちゃんは、かの有名なショパンだからである。さよう、

 おいら、ショパ〜ン3世〜

 最近、フジコちゃんがツレないのが、悩みの種なのだ。

 それはともかく、リサイタルは大盛況であった。町田市民文化センターは、黒山の人だかりであったあの苦しい稽古もこんな形で報われるなら、むしろ良い思い出になるというもんだ。
 何しろ、子供の頃に使っていたカワイのアップライト型ピアノが3万5千円で売れたのだ。うん。ピアノは高いからね。だいたい、子供の練習用ピアノなど中古で充分なのだ。調律、修理すれば、まだまだ使えそうなピアノが、あちこちの家庭に眠っているだろう。この際だから、みんなも提供してね。って、それは、リサイタルではなく、リサイクルというものだ。

 そうじゃなくて、本当にリサイタルだったのだ。今日はとても良い演奏ができた。それというのも、出演前ポケベルにこんなメッセージが入っていたからだ。

「ミンナジャガイモ」

 母からである。おかげですっかり緊張がとけた。でも、わたしは、一瞬広末涼子になってしまったのかと思ってしまった。

 リサイタルは、「葬送行進曲」から始まった。いやいや、別に笑いを取る為ではない。「葬送行進曲」というと、どうしてもTVゲームの軽いノリをイメージしてしまうが、カトリック教徒の間では大変神聖な曲とされているのだ。
 カトリック教の葬式では、喪主によってこの曲が演奏され、死者の魂をあの世に送り出すことになっている。もっとも、必ずしも喪主がピアノを心得ているとは限らない。その場合は代わりの人間が弾く事になっている。喪主もピアノが弾けたならというやつである。……という予定だったのだが、結局リサイタルは中止されてしまった。

 実は、「ミンナジャガイモ」のメッセージが届かなかったのだ。母ちゃんは文明の利器に弱いので、ポケベルにメッセージを入れるなんていう芸当ができなかったのである。
 すっかり緊張してしまったわたしは、祖父の自叙伝を読むことで心を落ち着けようとしたのだ。偉大なる祖父ショパンの話は、わたしに勇気を与えてくれるのだ。わたしは、自分がくじけそうになった時、この本を読んで心を落ち付かせることにしている。「いつもポケットにショパンを」だ。ちなみに、この本は初版物である。ということは、「いつもポケットに初版を」とも言えるかもしれない。

 さて、祖父の自叙伝でも読もうかとポケットをまさぐった時にことである。ポケットから出てきたのは、なんとトーストであった。東スポではない。食パンを焼いたものだ。決してあの新聞ではない。

 そういえば、何日か前に喫茶店でトーストを頼んだのであった。そう。わたしはトーストが好きだ。トーストしかメニューにないような喫茶店で何か食べようと思ったら、必ずトーストを頼むことにしている。トーストさえあれば、それで充分なのだ。他には何も要らない。もっともトーストが味気ない時は、テーブルの上に置いてある食卓塩をかけたりすることもあるけどね。

 で、この喫茶店であるが、注文したものが出てくるのが非常に遅い店であった。出てきたのが遅かったので、トーストを食べきれなかったのだ。仕方が無いので、トーストをポケットに入れて持ち帰ってきたのである。ちなみに、ここの喫茶店も味気ないトーストだったので、食卓塩をかけた。たっぷりとかけた。
 それにしてもこのトーストは、相当前からポケットの中に入っていたのではなかろうか。これでは、「いつもポケットにショパンを」じゃなくて、「いつもポケットに塩パンを」ではないか。

 まあ、そんなことはどうでもよくて、問題はその後のわたしの行動である。ポケットから取り出したトーストを見て、思わずパクッとかぶりついてしまったのだ。余程お腹が空いていたのだろう。当然ながら、そんな何日も前からポケットに入っていたトーストを食べてしまっては、腹を壊すというもんだ。
 段々とお腹が痛くなってきて、とてもじゃないがリサイタルなどやってられる状況じゃなくなってしまったのだ。なにしろ、救急車まで呼ぶ始末だったのである。食中毒を起こしたようだ。救急車で運ばれる途中、リサイタル中止の場内アナウンスが聞こえてきた。

「本日のピアノリサイタルは、諸般の事情によって中止となりました。お手持ちのチケットは……」

 そしてわたしは、薄れゆく意識の中でこう呟いた。

 それを言うなら、「ショパンの事情で……」だろ。

 というワケで、今日の分はおしまいだ。では、また会う日まで。


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