第32回 96.11.17くらい 『鏡・鏡』

「もしもし……、もしもし……」

 昨晩わたしは、そんな声で目をさました。ん? 待てよ。わたしは独り暮らしではないか。誰もいるはずがない。これはきっとTVを消し忘れたんだな。しかし、そう思ってTVの方を見ても、TVはちゃんと消えているのだ。TVじゃないとすると、こんな時間に留守番電話だろうか。しかし、留守番電話の件数表示ランプは消えている。留守番電話でもないようだ。さては、寝ぼけてしまったのだろう。では、再度寝ることにする。グォーッ

「もしもし……、もしもし……」

 やはり寝ぼけていたわけではないようだ。何者かが肩を揺すってくるのだ。誰かいるのか? 今日は酔っ払って帰ってきたが、その勢いで誰かをツレ込んだのだろうか。いや、わたしにそんな甲斐性はない。だいたい部屋が汚くて、他人を呼べるような環境ではないのだ。たとえ酔っ払っていたとしても人を部屋に入れるものか。するとあれか。まさか、幽霊や妖怪の類だというのか?
 わたしは、霊などは信じていない。霊はこの世に存在しないのだ。なぜならば霊はあの世に存在するからだ。わたしは、勇気を持って恐る恐るその声の方を振り向いてみた。するとそこには、この世のものとは思えないおぞましい生き物がいたのだ。わぁー、わっ、わっ。わたしは気を失ってしまった。そして、もう一度目をさますと、なぜか灯りが点いていた。

「先ほどは、大変でしたね。でも、自分の顔を見て失神する人も珍しいですよ」
 何者かに話しかけられた。よく見ると、そこには洗面所にあるはずの鏡がポツンと突っ立っていたのだ。わっ、わっ、わっ、鏡が喋っているーっ。わたしは、また気を失いかけた。

「あの、どうでもいいけど、話が進まないのでこれ以上気を失わないでくださいね」
 鏡が言った。

 そうか。さっきのおぞましい生き物は、鏡に映ったわたしであったか。なんとなく悔しいが、誰にも文句を言えない。言うだけ虚しい。それにしても、いったい何故鏡が洗面所からやってきたのだろうか?

「話があって参りました。話というのは、先程のことです」
 鏡が切り出してきた。そういえば、先ほど顔を洗おうとした時のことだ。なにぶんにも酔っ払っていたので、わけのわからないことを口走っていたのである。嗚呼、今ようやっと思い出した。

「やい、鏡っ! おまえはムカつくやつだな。どうしておまえは、このわたしを美しく映し出そうとしないのだ!? 毎日鏡を見ているんだから、たまにはサービスしてみろっ! おかげで、朝会社に行くのが憂鬱ではないか。だいたいだ。おまえには自分の姿というものが無いではないか。いつも他人のマネばかりして、それでも男かっ!? ちんちん付いているのか!? ちんちん付いているんだったら、見せてみろってんだ。このわたしのちんちんを見てみろ。これがちんちんというものだ。わっ、鏡。なんだ。そんなキタナイものを見せるな。ん。こりゃ、わたしのか。いいか、男というものは……」

 かなりムチャクチャなことを言ったのだ。それで鏡は何しに来たのだろうか? まさか、先程の罵声に腹を立てて抗議をしに来たのだろうか。スマン。あれは単なる戯言だ。許してくれ。

「いえ、わたしは腹を立てていません。むしろその逆です。さっきのみやちょさんの言葉に感動したのです。今までわたしは、男として失格でした。男としてけじめをつけなければならないと感じたのです。そして、ようやっと決心したのです」
 鏡は言った。

 ふむ。酔っているとはいえ、わたしも捨てたものではないな。鏡を感動させるとは、わたしのちんちんも偉大である。しかし、けじめとは何だろう?

「けじめというのは、わたしも男として彼女と所帯を持とうということです。みやちょさんの言葉で、ようやく結婚する決心がつきました。そこで、みやちょさんにわたし達の結婚式の立会人になってもらおう思い、本日参った次第なのです。ちなみに、ちんちんにはそれほどのものを感じませんでしたが……」
 鏡が言った。ホットケ。

「わたしからもお願いします」
 横から小さな手鏡が現われた。

 おお、なるほど。この手鏡は、わたしがよく後頭部の白髪をチェックをする為に使用しているものではないか。洗面台の鏡は、この手鏡と結婚しようというのだな。ふむ。相性が良さそうではないか。そうか。それはメデタイことだ。その立会人とやら是非とも引き受けようではないか。

「ありがとうございますっ!」
 鏡はペコリと頭を下げた。これがホントの前カガミだ。

 そんなわけで、結婚式を行うことにした。形だけでもということで、わたしは神父さんの扮装をした。実際の作法はよく知らないが要は気持ちの問題である。

「汝、病める時も健やかなる時も、手鏡を妻として愛することを誓いますか?」
「ハイ」
 鏡は頬を赤らめて答えた。ちなみに鏡のどこが頬でどうして赤くなるのかは、聞かないでほしい。

「では、誓いのキスを……」
 わたしは、洗面台の鏡と手鏡を向かい合わせた。どうやって鏡同士でキスをするのかは知らないが、ともかく向かい合わせてみたのだ。
 すると、なんてことだろう。煙とともに悪魔が現われたのだ。そうか。今日は13日の金曜日だったか。合わせ鏡をすると悪魔が出てくる日だったのだ。いや本当は16日の土曜日であるが、細かいことは気にしないでほしい。

「おおこれは、我が息子よ。結婚すると同時に子供ができるとは、なんともメデタイものだ」
 鏡が言った。

 何がメデタイものか。悪魔だぞ。悪魔。わたしは、自分の部屋に悪魔がいるなんてイヤだぞ。いったいどうするのだ?

「いえ。この子はわたし達で育てます。このアパートは子供禁止ですから仕方がありません。わたし達は出て行きます。わたしも男です。みやちょさんのお世話にならずに、なんとか稼いで家族を養うつもりです」
 そして鏡は、空缶をカラカラ鳴らしながら去っていった。

 いやはや。この鏡、やはり男である。先程は、暴言を吐いてすまなかった。男としてこの潔さを見習いたいものだ。まさに男のカガミである。

 ……なんていうコトがあって、今わたしの家には鏡が無いのだ。だから、わたしの頭がボサボサなのは仕方の無いことなんだ。決してダラシが無いからではないぞ。……っていう言い訳ではダメでしょうか?

 というワケで、今日の分はおしまいだ。では、また会う日まで。


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