第11回 96.09.24くらい 『ドラえもんは死なない』

 藤子不二雄が死んだ。知っての通り、死んだのはFの方だ。何も2人とも死ぬ必要はない。死ぬのは、1人で充分だ。
 わたしは、藤子F不二雄が死んだからといって、特に感慨はない。もう、藤子不二雄の漫画を面白いと思って読んでいないからだ。特別ファンだというわけでもなければ、親戚・知人でもない。あまりに悲しがったりするのも、どうかと思うのだ。邪険にするつもりはないが、わたしにとって、藤子F不二雄は、毎年必ず死ぬ何人かの有名人の中の一人なのである。

 だから、わたしがこの日記の中で、藤子F不二雄について書かなければならない理由は特にない。ファンでもない人間がああだこうだと語るのは、ずいぶん横柄な気がする。それでも何故書くかと言うと、藤子F不二雄については幾分か思うところがあるからだ。
 日記というのは、ある程度適時性が要求されるものだ。わたしの場合、あまり関係ないかもしれないが、それでもみんなが藤子不二雄について書いている時、これを書かなくては、この先書く機会を失ってしまうかもしれないのだ。だから、今日書く。ホントは、昨日書けば良かったのかもしれないが、時間的な余裕が無かった為、今日になってしまった。そういうわけで、今日は予定を変更して、「ドラえもんは死なない」を書くのである。
 断っておくが、もし、あなたが藤子不二雄のファンで、今回の死を傷ましく思っているならば、この先読まないことをお勧めする。藤子不二雄を特別ホメたりしないからだ。特別ケナしたりもしないが、人によっては「死者を侮辱した」と感じることもあるかもしれないからだ。

 さて、上にも書いたように、わたしは藤子F不二雄が死んだからといって、特別感慨深いものはない。むしろ、手塚治虫が死んだ時の方がショックを受けた。藤子F不二雄の新作を読みたいとは思わないが、手塚治虫の新作なら読みたいと思っているからである。もっと言えば、田河水泡の方がショックだったのだ。というのは、もちろんウソだ。
 まあ、手塚治虫と藤子不二雄を同じく扱ってはいけないのだろう。手塚治虫は、漫画界に多大な影響を与えた人である。いや、漫画界だけではない。このわたしにだって、影響を与えたのだ。その証拠に、この「みや千代日記」にも、手塚治虫の影響が感じられるのだ。どの辺に影響を受けているかというと、この辺に受けているのだ。アッチョンブリケ

 わたしが何を言いたいのかというと、藤子不二雄はそれほど好きではなかったということだ。わたしにとって、フジオと言えば赤塚不二雄だし、フジコと言えば峰不二子なのである。もっと言えば、フジオと言えば暴行である。フジョ暴行。ああ、そこの貴女、逃げないように。
 そういうわたしでも、ご幼少の頃は、藤子不二雄作品をよく読んでいた。子供にとって、藤子不二雄作品は一種の通過点である。わたしは、藤子不二雄作品でも「プロゴルファー猿」、「魔太郎が来る」、「笑うせーるすまん」、「ブラック商会変奇郎」などは、よく読んでいた。って、全部Aの方ではないか。

 それは冗談として、Fの方の作品も見ていなかったワケではない。「パーマン」、「おばけのQ太郎」、「忍者ハットリくん」、「キテレツ大百科」などがFの方の作品だったと思ったが、これらはごくたまに見ていたし、特別嫌いではなかった。
 ただ、「ドラえもん」だけは、好きになれなかったのだ。まあ、ドラえもんは、好きだ。できれば家に居てもらいたいくらいだ。では何が嫌いかっていうと、のび太が嫌いなのだ。のび太のしょうも無さは、斎藤清六や見栄晴のしょうもなさに通じるものがある。見ているとイライラしてくるのだ。

 のび太に感じる憤りは何かと言うと、ドラえもんという相当好条件を与えられているにも係わらず、それをうまく活用できない点だ。ここまで、ヒドいと同情すらできない。結局最後にはダメにするくせして、まず最初にドラえもんを頼ろうとする根性が気に入らない。
 わたしは、根性や努力というものが嫌いだ。だから、のび太にもこれらを強要する気はない。しかし、こういうダラしないだけの人間ドラマを見る神経はない。一体、どこが面白いというのだろうか?

 パーマンを見てみろ。正体がバレたら動物にされてしまうというリスクを背負って、けなげにもみんなの為に働いているのだ。感動せずにはいられない。キテレツ君やハットリ君も才能があって、尊敬できる人達だ。あのQ太郎でさえ、結果はともかく頑張っているところが見られるのだ。しかし、のび太にはそういった点が見られない。だから嫌いなのだ。

 わたしは、こんなに「ドラえもん」が嫌いであるというのに、世間では「ドラえんもん」が一番評価が高い。そして、藤子F不二雄が死んだことで、もう見られなくなるのではないかと心配している。この際、はっきり言っておこう。ここまで作り上げられた「ドラえもん」ならば、藤子F不二雄でなくても作れるのだ。だから、心配はいらない。
 「ドラゴンボール」だって、もはや鳥山明が書いているワケではない。長谷川マチ子が死んでも、「サザエさん」は続いている。もはや、あれは誰でも作れるものになっているのだ。もし、「ドラえもん」が作れなくなるとしたら、大山のぶ代が死んだ時だろう。でもその時は、栗田貫一が吹き替えをするかもしれない。
 この先、食いっぱぐれたくないモノマネ芸人は、「サザエさん」や「ドラえもん」の声真似を習得すべきだろう。

 最後になってしまったが、モンゴル人となってしまった藤子F不二雄のご冥福にはお祈りする。もとい、モンゴル人ではない。蒙古人だ。いや違う。もう故人の間違いだった。

 というワケで、今日の分はおしまいだ。では、また会う日まで。


 関係無いが、わたしは昔「ドラクエ」って、

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